ベトナム· フーコック島、キエンザン省・カマウ省沿岸、ベトナム中部沿岸· 東南アジアの食文化

ヌクマムの一滴は、なぜ船の上から始まるのか

魚と塩だけなのに、ヌクマムの味はどこでも同じにならない。フーコック島の木樽、内臓酵素と耐塩性微生物、船上での塩漬け、港から外へ運ばれる産地名をたどる。

執筆日:編集日:文:ttr1563
フーコック島の魚醤工場で、赤く塗られ太い縄で締められた大型の発酵樽が通路の両側に並んでいる
画像:Frank Fox / Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vats_at_a_Fish_Sauce_Factory_on_Phu_Quoc_Island_in_Vietnam_01.jpg

瓶の栓をゆるめると、塩気の奥から干した魚、焼いたナッツ、熟した果物にも似た香りが立つ。琥珀色の液体を数滴たらすだけで、汁物の輪郭が急にはっきりする。ベトナムの魚醤ヌクマムは、材料だけを見れば魚と塩が中心だ。それでも海岸を南北にたどれば、香りも色も余韻も揃わない。味を分けるのは、魚の種類だけではない。魚をいつ塩に触れさせ、どんな容器で、どれほど待ち、液体をどう抜き戻すか。その一連の仕事に土地が入り込む。

魚を液体へほどく

ヌクマム造りでは、小魚を高濃度の塩とともに長く置く。ここでいう「発酵」は、パンのように微生物だけが主役になる現象とは少し違う。魚の内臓などに含まれる酵素がたんぱく質を切り、ペプチドやアミノ酸へほどいていく自己消化が大きな働きをする。高い塩分に耐える微生物群も、その環境で移り変わる。

味の違いを生む条件は多い。魚種、魚と塩の割合、漁獲から塩漬けまでの時間、温度、熟成期間、樽の中の液を循環させる方法。研究資料は、ベトナム各地で魚種と技術が異なると整理している。したがって「魚と塩だけ」は、均一さの説明ではない。むしろ、工程の小さな差が隠れずに現れる配合である。

船の上で始まる産地

フーコック島の名を冠する魚醤では、原料のカタクチイワシ類をキエンザン省とカマウ省の海域で漁獲し、混ざった魚介を選り分ける。塩を加えるのは工房へ戻ってからではなく、まだ船上にいるうちだ。魚が傷み始める前に塩を行き渡らせ、望ましくない腐敗を抑える。港への水揚げは製造の出発点ではなく、すでに始まった仕込みの中継地点になる。

島の周辺はタイランド湾に面し、メコンデルタやカンボジア側から流れ込む水の影響を受ける。EUの原産地呼称申請文書は、安定した高温と日照、海域の条件、そこで育つ魚、作り手の技術を品質の結びつきとして記載する。ただし、これはフーコックの規格が説明する地域性だ。ベトナム中部のナムオーなどではイワシを使う例もあり、塩の産地や配合、発酵時間も家ごとに違う。一つの島の方法を、ベトナム全土の標準にはできない。

樽は巨大な濾過装置でもある

ここで妙に気になるのが、木樽の出口である。フーコックの伝統的な樽は円筒形で、塩水に長く耐える島の木材を用いると規格文書にある。底近くには小さな排出口があり、木材、石、サンゴなどを組み合わせた濾過部を設ける。樽は魚を入れておく大きな箱ではない。熟成液を澄ませ、抜き、再び上から戻すための装置でもある。

魚と塩を詰めた後、表面を木の部材で押さえ、12〜15か月ほど自然に熟成させる。液が黄褐色になり、濁りが消えて香りが整うと、底から抜いた液を樽へ戻す。この循環を重ね、透明感と粘りを確かめる。最初に得る濃い液は「ヌクマム・ニー」と呼ばれる。さらに塩水を加えて後続の抽出液を取り、窒素量、つまりたんぱく質がどれほど分解され液中へ移ったかを示す指標に合わせてブレンドする場合もある。

樽材が香味へ及ぼす程度を、今回確認した資料だけで数値化することはできない。一方、木が塩水に耐え、温度変化をやわらげ、循環と濾過を可能にすることは確認できる。樽の違いは、木の香りを移す話だけに縮めないほうがよい。液体の動かし方を含む、工房全体の設計の差なのだ。

港から出るのは液体と名前

ヌクマムは海辺の保存技術から生まれたが、沿岸の家だけで消費されてきたわけではない。現在、ベトナムとタイは魚醤の主要輸出国とされる。船で届いた魚が樽の暗がりで液体になり、今度は瓶に詰められて国内外へ動く。交易によって運ばれるのは塩味だけではない。「フーコック」という産地名も商品価値として運ばれる。

その名前を守る仕組みが原産地呼称である。EUの文書では、対象海域、島内での加工、木樽での熟成、抽出、島内での瓶詰めまでが細かく結び付けられている。これは昔の仕事をそのまま凍結する制度ではない。遠い市場で産地名が一人歩きしやすくなった時代に、どこで誰が作った液体なのかを示す境界線でもある。

一滴の後ろにある倉庫

食卓では、ヌクマムは小皿のたれになり、スープや炒め物へ溶け、姿を消す。けれど瓶の向こう側を覗けば、網を引く船、甲板で振られる塩、水揚げを待つ港、暗い倉庫に並ぶ背の高い樽が続いている。

産地の味とは、樽材だけが作る刻印ではない。海域の魚、塩の性質、船上で始まる保存、長い自己消化、液を抜き戻す手つき、そして産地名を遠くへ届ける流通が重なった結果である。次に琥珀色の一滴を落とすとき、その透明さは、樽の中を何度も巡ってようやく外へ出た液体の透明さに見えてくる。

#ヌクマム#魚醤#発酵#フーコック

Sources

参考資料・出典

  1. Annals of Food Processing and Preservation / Nha Trang University researchers, ““Nuoc Mam” Fish Sauce in Vietnam: A Long History from Popular Seasoning to Health Benefit Bioactive Peptides” https://www.jscimedcentral.com/public/assets/articles/foodprocessing-2-1017.pdf(自己消化と耐塩性微生物による発酵、魚種・塩分・温度・循環による品質差、12〜15か月の熟成、樽底の濾過構造、初回抽出液と窒素量の説明に使用。)
  2. Official Journal of the European Union / EUR-Lex, “Publication of an application pursuant to Article 6(2) of Council Regulation (EC) No 510/2006 — ‘Phú Quốc’” https://eur-lex.europa.eu/legal-content/EN/TXT/?uri=CELEX%3A52012XC0104%2803%29(対象海域、船上での選別と塩漬け、木樽の材質と形、熟成・循環・抽出工程、気候および海域との関係、島内加工・瓶詰めと原産地呼称の規定に使用。)
  3. Associated Press, “Climate change and overfishing threaten Vietnam’s ancient tradition of making fish sauce” https://apnews.com/article/vietnam-fish-sauce-culture-tradition-food-climate-change-89ed3a23eb75e99c94fc562c339b509f(ナムオーにおけるイワシの利用、塩の産地・配合・熟成時間による家庭差、伝統製法と工業製品の併存、ベトナムとタイが主要輸出国であること、原料魚をめぐる現在の状況に使用。)
  4. 画像:Frank Fox, “Wikimedia Commons” https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vats_at_a_Fish_Sauce_Factory_on_Phu_Quoc_Island_in_Vietnam_01.jpg(CC BY-SA 4.0)

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